平戸洸祥団右ヱ門窯の歴史

 この三川内の地に平戸藩御用窯が開窯されたのは、1622(元和8)年です。当窯は、当時の陶工の一人・中里エイこと高麗媼(こうらいばば)を祖とする直系にあたります。

 これまでの当窯の歴史については、第16代中里森三郎の調べにより、江戸中期始めにあたる1690(元禄3)年までさかのぼることができます。それ以前については、当窯の先祖一統は、1598(慶長3)年の慶長・文禄の役で平戸藩主・松浦鎮信(まつらしげのぶ)公が帰陣する際、豊臣秀吉の命令で連れ帰ってきた、韓国・熊川(ウンチョン・釜山の近く)出身の陶工だったことが、調査で分かっています。 慶長・文禄の役から数えて400年目にあたる1998年、熊川にて第1回熊川献茶会が開催されました。松浦鎮信公の末裔・松浦章(まつらあきら)氏とともに当窯も参加し、初めて先祖の里帰りを果たしました。
400年にわたり技術を受け継いできた当窯は、昭和天皇御成婚の御大禮式典に嘉納の栄誉を賜り、1928(昭和3)年10月23日付をもって、宮内庁御用達の拝命を頂き、現当主に至っています。

開窯以来、天草陶石を使い、白磁に青色の呉須(ごす・顔料)で描く染付を主として、菊花飾細工を用いた装飾品をはじめ、蕪(かぶら)の絵柄を代表とする日用食器も多数制作しています。特に蕪は当窯に伝わる伝統的な絵柄で、平戸藩主・松浦隆信公が子孫繁栄を願って蕪づくりを推奨したことが由来です。また古平戸と呼ばれる薄手の呉須で描いた草花の絵柄や、中国の子どもを描いた唐子絵なども制作しております。

三川内焼について
「400年の歴史を誇る三川内焼」

三川内焼は、現在までのおよそ400年の間に、平戸御用窯時代から民窯時代へと変化していくなど、さまざまな出来事がありました。ここでは、Q&A形式でその歴史を紹介します。

Q1 三川内焼はいつ始まったのですか?

A 今からおよそ400年前、豊臣秀吉が明の征服を目指して朝鮮半島に攻め入った、慶長・文禄の役までさかのぼります。平戸藩主・松浦鎮信公は秀吉の命令により、陶工の一人・巨関(こせき)を連れ帰りました。1598年、巨関は中野(なかの)で窯を開き、平戸で磁器がつくられるようになりました。そのため、三川内焼は平戸焼(中野焼)とも呼ばれます。三川内焼の歴史は、韓国陶工によって始められたのです。

Q2 原料はどこでだれが発見したのですか?

A 巨関とその息子の今村三之丞(いまむらさんのじょう)が、1634(寛永11)年に針尾三ツ岳(現在の佐世保市江上町)にて網代(あじろ)陶石を発見しました。もう一つの説として、1712(正徳2)年、三川内地区木原山の横石藤七兵衛(よこいしとうしちべえ・二代目中里茂右衛門の三男)が発見したという説があります。現在は、今村家の説が有力とされています。
その後、1662(寛文2)年に三之丞の子・今村弥次兵衛(やじべえ)が、熊本の天草陶石を発見したといわれています。発見のきっかけは、三川内から車で20分ほどのところにある早岐(はいき・長崎県佐世保市)に陸揚げされてくる砥石を、磁器原料として使用していたことといわれています。早岐の瀬戸(狭い海峡)には毎年、早岐茶市(はいきちゃいち)という海と山の幸がそろう市がたちます。そちらの歴史も400年ほどになるようで、その市に関係していたと考えられています。


三川内皿山の風景

Q3 平戸洸祥団右ヱ門窯の先祖は?
 佐賀県の唐津にも中里という姓がありますが?

A 当窯の先祖は、高麗媼(こうらいばば・日本名は中里エイ)という陶工です。慶長・文禄の役の際、巨関らとともに連れてこられた陶工の一人、もしくはそれに近い身内の一人だといわれています。
高麗媼は高い陶技が評価され、唐津・椎の峰(しいのみね)の中里茂右ヱ門(なかざともえもん)に嫁いだため、中里の姓を名乗っているといわれます。夫の死去により、三川内にいた岸岳崩れの陶工を頼って三川内に来たのではないかといわれています。その後、高麗媼は三川内・長葉山(ながはやま)にて窯を開き、三川内焼の創生期に貢献したといわれています。

岸岳崩れとは、文禄の役の際、波多(はた)という大名が朝鮮半島の熊川(ウンチョン)でほかの大名の軍と合流せず、1年半以上もいたため、軍の命令に背いたとして、秀吉から家を断絶され、そこにいた岸岳(きしだけ)の陶工が各地に離散したことをいいます。その陶工の一部は、縁故のある竜造寺一族の勢力が残っている三川内地方に逃避し、唐津系陶器窯を開いたといわれています。そのため、長葉山でも初期の段階では、唐津系の陶器が出土しています。


平戸洸祥団右ヱ門窯の外観

Q4 三川内焼の昔と今の窯元数などについて教えてください。

A 三川内焼の産地は、大きく分けて三川内山、木原山、江永山地区の3つの皿山に分かれています。今村三之丞が1637(寛永14)年にこれまでの業績をかわれ、三川内山皿山代官兼棟梁(みかわちやまさらやまだいかんけんとうりょう)に任命され、1643(寛永20)年に三川内山に役所、木原、江永山に出張所がそれぞれ整備されました。これが三川内三皿山の起こりです。皿山とは、その名の通り皿(焼き物)を焼いている山という意味だと推測されます。ほかの産地でも○○皿山と呼んでいるところがあります。

窯元数や職人数の変遷は、次の通りです。

江戸期
はじめは今村棟梁の家に御細工所がありましたが、その後、皿山代官所ともに細工所が整備され、棟梁以下20名ほどで御用品を焼いていたようです。またそれ以外にも、御用窯を手伝っていた人がいるようです。その頃の三川内の家数は、300戸ほどだといわれています。

窯元数 職人数 三川内人口
明治43年 39戸 510人 約1000人
昭和43年 20戸   1304人(世帯数300戸)
  • 陶磁器生産に従事する人70%
  • 商業(焼物関係)10%
  • 農業15%
  • その他5%
平成13年 18戸   694人(世帯数249戸)
  • 陶磁器生産に従事する人25%
  • 商業5%
  • 農業15%
  • その他55%


当窯に伝わる、大正〜昭和時代初期の図案帖

現在も平成13年にくらべ、さほど変わっていません。陶磁器生産に従事する人は減ったものの、窯元の中心的な年代は30〜50代が主流で、どの窯元も活発に活動しているのが現状です。

※三川内に残る言い伝えや文献を参考に書いておりますが、お気づきの点がありましたら、お問い合わせ先までご連絡ください。

■参考文献
大西政太郎『陶芸の伝統技法』1985年
野田敏雄『肥前平戸焼読本』1988年
下川達彌『土と炎の里長崎のやきもの』2001年

■調査報告書
長崎県立美術博物館「長崎県三川内・久賀島・野母崎の文化」1983年
佐世保市教育委員会「長葉山窯発掘調査報告書」1998年
佐世保市教育委員会「平成十年度佐世保市埋蔵文化財発掘調査報告書」
佐世保市史談会「平戸藩御用窯総合調査報告書」2002年

カテゴリーから探す

グループから探す

コンテンツ